この紀行文はある雑誌に掲載されたものである。
これにおける一切の責任と著作権はこれを放棄する。

           ナマステ・ナマステ              YASU.....OKAMOTO

第1章 ビスタリー                 

2004922日、バンコクで5時間のトランジットの後、カトマンズ国際空港で荷物を受け取った時点で、すでにわれわれの荷物の数点は開封されていた。あらかじめ貴重品は手荷物としていたため、たいした被害がなかったのは幸いであった。宮崎発「てげてげ遠征隊」一行は、ことあるごとに隊員のパスポートを人質に「ゆうこときかんとパスポート破って捨てるかいね」と、威嚇で統率をはかる番子隊長以下、木花の資産家夫婦、大塚の西表山猫ならぬ裏表山ネコさん、バックシルバーもたじろぐほどのスーさん、謎のきなこ嬢、そして私の7名である。

空港に出迎えにきていたのは、現地ガイドの照悟さん。彼は日本人初のカイラスの五体投身の荒行を敢行したその筋では有名人で、横にはいかにも精悍な顔つきのナワン・シェルパが合掌のポーズで「ナマステ」、我々7名も一斉に合掌して「ナマステ」。こんにちは、さようなら、出会いと別れが同じ用語とは、一期一会の原点はネパールにあったのか。空港ターミナル及び町の要所には、AKS-745.45ミリ)自動小銃をかかげた迷彩服の軍隊、土嚢の陰からこちらをのぞいているRPK(7.62ミリ)軽機銃、そうなのだ、この国は王国といっても、全土の1/3を反政府勢力のマオイストが支配する、日本国外務省の渡航自粛区域であった。

軍隊が国民に決して発砲することはないと、長い幻想の平和のなかに育った我々の認識は、実弾がこちらに向いているとしても、映画やテレビのワンシーンのように感じて、撃たれることはあるまいとたかをくくるのである。この認識錯誤がイラクの人質事件を招いたのかと思ったりしたのである。                                                

    

首都カトマンズは、30を超える民族、主な宗教だけでもヒンズー教、チベット教、ラマ教があり、その町をクラクションを鳴らしながら我が物顔に走り回る日本の廃車置場にもないようなインド製の車、ドアを全部取り除いた乗合タクシー、信号機も区画線もない道路、悠然と道路に寝そべる牛、日本人とみるとすぐ物をねだる物乞い子供集団。一口で表現すると、おもちゃ箱をひっくり返したような、雑然としたなかにも、日本のどの都市でも感じることのない、うねりのような凄まじい民衆のエネルギーに圧倒されてしまった。

この町で面白いのはショッピングである。相手は名うてのチベット商人、言い値の1/3まで値切ればほぼ成功と照悟さんより聞いて、早速交渉開始。相手に不足はない、なだめすかし1/10まで値切り、各種お土産めでたく落札。それと忘れものなどまずでてこない。私もレストランで帽子を忘れ、あわてて取りに戻ったが、すでにだれかが持ち去ったあとだった。落し物・忘れ物、これ全て見つけた人が、神様の贈り物としてありがたく頂くらしい。

翌日我々9名と、インドからの出稼ぎから帰るチベット系の若い衆7名(なぜかこの連中この熱いのに全員皮ジャン)を乗せた、1985年アメリカ製ビーチ1900Dブッダエアー双発17人乗りは、ガソリンの臭いの充満する機内に、乗務員の配った騒音防止綿花を全員両耳にねじ込んで、よたよたと2時間遅れの定刻に、カトマンズより登山基地ポカラに向けて飛びたった。この国では、全てがビスタリービスタリー(ゆっくりゆっくり)なのです。2時間遅れなど定刻誤差の範囲内なのだから・・・・・

  やがて機窓に飛行機より高く白く輝くマナスルが見え、機も傾くほどに、全員片側でシャッターを押していると、ネパール服の乗務員のお姉さんが、コックピットからのほうがよく写真が撮れます、と教えてくれた。客室とコックピットのドアはない。シェルパのナワンさんは、各国登山隊に付き合ううちに、日本語、英語、フランス語を話せるようになった。子供の時から30をこす民族のなかで育つと、外国語など単なる隣部族の方言程度になるのか、単一民族単一言語の中で、今だ英語音痴の私などまったく羨ましい限りである。

そのナワンさんの話だが、以前着陸待機で上空旋回中、ソビエト人パイロットはやおらウオッカをちびちびやりはじめ、空になったときようやく着陸しホッとしたそうである。カメラ片手にコックピットにいくと、わが国のお菓子のコマーシャルそっくりな、おらが村のカールおじさんが操縦桿を握っていて、お互い合掌で「ナマステ」をして前方のアンナプルナ山群をカメラに収めました。

やがて清武駅舎に大塚公民館がくっついたような空港ターミナルに着いて、先行していたサンちゃんをはじめとする4人のポータと合流し、一行13名の「てげてげ遠征隊」は、ヒマラヤに向かって、小さいが我々にとっては記念すべき偉大な第一歩を踏み出したのである。

第2章 ダルバート

 我々のめざすアンナプルナ内院は、ナヤプルからモディ・コーラ渓谷に沿い、行きが5泊6日の往復12日間の旅となる。ロバの糞だらけの石畳の道を、主としてグルン族の多い村々をナマステ、ウバステと言いつつ、1日の行程約6時間、韓国岳から高千穂の峰を縦走する程度のアップダウンをくりかえしながら、徐々に高度を上げていくのである。このグルン族の女性は美人が多い。彫りの深い顔に哀愁をおびた切れ長の目、しなやかな体形、大和女性が失いつつあるひかえめな性格、この地を訪れる日本人男性が結婚する相手は、グルン族の女性が多いと聞いて納得した。カトマンズでインド系男性をイケメン・イケメンと騒いでいた女性群をよそに、美人だ美人だと騒ぐ男性群に番子隊長の恐ろしい報復がその夜待っていたのである。4人のポータは一人40k近くを担いで、我々とつかず離れずゴム草履ですたすた息も切らさず登っていく。私は当初自分の荷物約25kgは自分で担いでいくつもりでいたが、途中ナワン・シェルパによりとりあげられて、それでも何とか10kgは担ぐことができた。私にしてみれば来年に予定する6000m級への体力テストも兼ねていたのだが、彼らにしてみれば、自分たちの仕事を邪魔しないでくれといったところかもしれない。

 トレッキング道といっても集落と集落をつなぐ生活道路であり、幾世代に渡り補修され続けた幅1.5mほどのヒマラヤ片麻岩舗装の主要地方道路である。ただしこの主要地方道ポカラアンナプルナ停ロバ線は山の斜面に沿って急勾配の階段状になっており、通行できるのは、人間、ろば、羊くらいである。

 出発1日目は亜熱帯地域で、水牛で水田を耕作しているのがみられる。面白いのは牛は神様のお使いであるため、働かされることも食べられることもなく、大切にされているのだが、水牛はこき使われて、最後は焼肉店に売られる哀れな一生を送る。私たちからみると、水牛も牛も同じ牛で、角の生え方が違う程度と思うのだが、ネパールの人に言わせると違うのだそうだ。生れ落ちた時から、一生の運命が決められるのかと、水牛をわが身を置き換えて考えさせられる光景であった。

 この道で最も気を使うことは、リーチがかかることである。リーチ即ロン、麻雀ではないが、リーチつまりヒルです。雨上がりなど草の先端には多くのリーチが精一杯体を伸ばして、熱感知センサーを目一杯上げて、いらっしゃい、いらっしゃい、早よ来んねと待ち構えていて、ちょっとでも触れるとすかさずとりつき、靴下などいとも簡単にかいくぐり、容易に発見されない個所まで侵入して、たらふくご馳走を吸い尽くすのです。休憩のたびに入念なボディチェックを繰り返すのですが、各人それぞれ献血した模様です。但し、このリーチたちとポータや地元の住民の間には秘密協定が結ばれているのか、はだし同然で歩いている彼らは血を吸われることはありません。

主要地方道路には、歩行約3時間ごとにロッジがあり、一室3人程度の個室のベッドで、各自持参した寝袋にくるまり寝ます。一応シャワーも“推選”トイレもあり、シャワーは最初温水がでるのですが、徐々に冷たくなり、最後の人になると氷河の水そのもの、かなりの修行覚悟となります。もし「お先にどうぞ」といったら最後、命がけのシャワー荒行となります。番子隊長の報復人事は、その夜のシャワー順序が私とスーさんは最後となり、氷河水を浴びる2人の絶叫が暗い谷間に長く響き渡りました。

トイレ使用後は、健康状態をチェックして、置いて在るバケツの水を流す手動水洗式です。

ある朝トイレにいくと、よほど先を急いだのか、置いてきぼりをくったでかいやつが鎮座していた。

一瞬たじろいだのですが、とにかく水を汲んで「はよいきんしゃい」。流しても動きません。そうかこやつは国産じゃねえなと、今度は多目の水を汲んで「你好我臭即流謝謝」とやってもてこでも流れない。ならばと、バケツ一杯の水を力いっぱい「シャ〜ラップ・ゲットアウト」とやってどうにか退散願いました。もし今後かかる幸うんに出会うことがあれば、一見して沢庵タイプ、餃子タイプ、ステーキタイプを判別し即座に流量・流速を算出することをお薦めいたします。もしもこの方式が日本で普及すれば、直腸癌の早期発見に一役買うことまちがいなし。その為あえて“推選”トイレと呼ばせてもらいます。

毎日遅くとも4時頃までにロッジに入り、食事の注文をすると、6時頃から夕食タイム。ビールで乾杯。ロクシー焼酎、エベレストウィスキー、主食はダルバート、揚パン、ピザ、焼き飯、カレー、モモ(シュウマイ)、チョウメン(焼きそば)、チャパティ、から揚げ、卵焼き、ナン、ニンニクスープのうち数品を注文するのだが、われわれの夜の宴会が終了するまで、シェルパ、ポータは決して食事をとりません。私たちの食事の手配をしたり、終わるまでうす暗い食堂の片隅で待っています、何度もナワンシェルパに、一緒に食事を食べましょうと提案したのですが、彼は頑として受け付けず、我々の終了後5人でダルバートを食べていました。ダルバートというのはネパールの主食で、ご飯にダルという豆のカレー煮をかけて食べる、一種の汁かけ飯とでもいいましょうか。それを直接手でつまんで食べるのですが、朝食はとらず、昼も夜も明けても暮れても、彼らの食べるのは、ただダルバートだけ。木花の資産家のおやじさんは朝晩ダルバートを注文して、あだ名がついにダルやんになってしまいました。出発前、生水生物は決して口にしない、と注意していたのですが、裏表山ネコさんついうっかりサラダに手をだしたのが原因か、暁の超特急にみまわれてしまいました。細菌性の場合に備えて抗生物質も用意していましたが、一応オーソドックスにラッパマークと伝統の梅エキスで2日ほどで事なきを得ました。

第3章 タルチョ

 宮崎をたって4日、昨日まで元気に先頭を飛ばしていたスーさん、朝から元気ない。さてと、私は心の中でほくそえんだ。今からがわしの出番じゃ、ここはプロにまかせんしゃい、歩くだけの単純労働になると、雨にも負けず、風にも負けず、夏の暑さにも負けず、東に西に毎日過酷なフィールドワークを30年もこなしてきたのは伊達じゃない。以後ビスタリービスタリーと先頭を仕切ることになる。

トレッキング3泊目、バンブーホテル、朝から庭できなこ嬢がなにか騒いでいる。ねぼけ眼に飛び込んできたのは、朝焼けに燦然と輝く魚の尻尾、そうまぎれもなく「神の山マチャプチャレ6993」である。特徴のある双似峰をピンと跳ね上げて、あの写真でしかみたことのなかったやつじゃないか。「おー待っていてくれたんかい」すると、それは「よー来なさったねー」といいつつ、その尻尾をばたばたと動かしているのが、私の目には確かに見えたのである。いつものようにラジオ第二体操の後、私を先頭にトレッキング開始。

 先頭は重要な地位である。すでに猿社会と同じで、ボスのポストを手にいれると群れを率い、他の群れを睨みながら、良い餌場を確保しなければならないからだ。

番子隊長は、時折パスポートを印籠の如くちらつかせて地位奪回を覗うが、日向文明から程遠いかの地においては、パスポートよりもちり紙のほうが重要な紙となってしまった。      

話はそれるが、この遠征隊の構成要因についてふれなければ、この一見無秩序な集団の前途に読者は不安を感じるであろう。それは、宮崎市霧島町にある某アウトドアショップに出入りする山好きの連中で、いたって控えめだが、自己顕示欲の強い共通項に、年に3回以上ネパールと宮崎を行き来している、番子隊長の口車に乗った、お金に慎重なくせに反省の伴わない連中、顔は知っているが、手を握るほどの会話はしたことがない、そんな寄せ集めでいい年でそれぞれ日向社会ではそこそこの立場にあり、少し税金を納め不在者投票にいく、善良な宮崎市民でありますから、どうぞ御心配なさらんで下さい。

 このあたりから亜寒帯に入るのだが、主要地方道がかなり高い所を通る関係から、耕して天に至るの反対で、耕して谷に至ると表現したほうが適切で、段段畑が急傾斜の斜面にびっしりと耕作されていました。トウモロコシ、麦、大豆、ジャガイモ等が栽培されているようです。成人男子の姿はほとんど見当たらず、子供とお母さん、お年寄りが険しい道を収穫物を籠でかついで、あえぎながら登っているのが見受けられました。父親は多分町か隣国に出稼ぎにでているか、傭兵「ゴルカ」兵として外国にでていると、ナワンさんの説明でした。

 道の峠には石塚があり、経典のかかれた色とりどりの旗「タルチョ」が風にはためき、いよいよ遠くにきたものだ、ここで死んだら鳥葬にされてしまうのかと、鳥葬の儀式が一瞬頭をよぎって、思わずタルチョに手をあわせ、知っている限りの祈りの言葉を唱えました。

 

4章 マンダラ

 トレッキング4日目、すでに標高3000mに近く、人家はなく行きかう旅人は、各国トレッカーかロッジに荷物を運ぶポータくらいである。モディ・コーラ渓谷は遥か1000mは下になり、山はいよいよ急峻さを増し、山腹を流れ落ちる谷は幾筋もの滝となり、ごうごうとした音は峰々にこだまし、空に飛ぶ鳥も無く正に秘境になりました。主要地方道は一般山岳道にかわり、いくつかの横谷にかかる丸木橋を慎重に渡り、一歩一歩高度をかせぐごとに、前方のアンナプルナは純白に輝きいよいよ大きく見上げるように迫ってきました。今から4500万年前インド亜大陸とユーラシア大陸がぶつかり、テーチス海からヒマラヤ地域が陸化し、アイソスタシー回復(浮力)と、南北の圧縮により年間1mmから2mmの隆起と縦谷横谷の壮絶な侵食との闘いの果てに、気の遠くなるような時間をかけて、8000m以上が14座と。そして今なお隆起をつづけているヒマラヤとは何か。それはこの地に立てば、理屈では理解できないそれを超えた「自然の叡智」を感じる。ふと出発前友人のIさんの言葉を思い出しました。彼曰く「大陸移動に比べたら我々の日常の大半は、ささいなことにすぎないのです」そう言いながらも彼の日常は些事に90%以上費やされ、ナフコの960円で購入したトンカチを渡したのです。そのトンカチも空港で盗まれることもなく、そろそろ出番が来たようです。歩く道すがら、沢筋でせっせと採掘に精をだしたのですが、ヒマラヤ片麻岩がほとんどで、他はキラキラ輝く白雲母、黒雲母、シルトくらい。めざすアンモナイトは発見できませんでした。後で聞いた話ですが、カリガンダキ川の上流ムクチナートに行けばダチョウの卵のような黒い石があり、割ると中からアンモナイトがよくでるそうです。もっともアンモナイトは帰りに露天商から値切りに値切り購入いたしました。  

帰国後「足立先生」にみてもらった結果、片麻岩の中に石榴石が含まれていて、それが唯一の収穫物でした。鉱物はさておき、人家が終わったあたりから、山腹を覆う高さ1mくらいの草に実がびっしりついている。ナワンさんがしごくように実をとり「何か分かりますか」と見せた。聞くとそれは大麻ということです。更にあたりに黄色い花を咲かせているのはヒマラヤケシと聞くと、技術者倫理はどこにいったか、浅ましくも頭の中で5つ玉そろばんが末端価格を算出したり、あるいはこの資源を有効活用して、徒歩5日がかりでしか医療を受けることのできない現地住民に、役立てることはできないかとか、正邪激しく心のなかで闘いながらも結局大多数の人々と同じように、やや後ろ髪を惹かれる思いを胸に先に進みました。

その夜のミーティング(夕食前に其の日の感想や昔話など各人何でも23分講話をすることがいつしか夕食前のセレモニーとなっていました)で、スーさんが亡くなった奥さんの遺影を同行してきて、そのことが話題となり、資産家ご夫妻は息子さんを交通事故で亡くしたことなど、なんとなく話がしんとしてきました。人間感情を喜怒哀楽で表現すると、私の場合、喜怒楽はすぐにも体験を話せるのですが、本当の哀しみとなると思いつかない。なぜなら哀に限っては現在進行形でなければ、双方の同調はとれないからだと思う。母が亡くなったのは随分前ですでに時効である。父が亡くなった時は悲しみよりも長男としてこれからなさねばならない諸儀式で頭が一杯であった。余談だが、父が危篤状態のとき早朝来てくれた医師が、注射を取りに帰るが、その間変化があったら、瞳孔を確認しなさいと言ってしばらく席をあけた。その間呼吸が止まり私は父の目を開くと、すーっと瞳孔が開くのが確認できた。 

 それは父の88年の人生の全てが、自然に帰る瞬間を見送ったような気がして、悲しみよりも死とはこんなに荘厳なものかと思った。

 そんなことを考えていると、きな子嬢が「あら、岡ちゃん深刻な顔してどうしたの」といい、皆は私がよほど悲しい思いをしていると思ったらしい。輪廻転生あるかもしれない、ないかもしれない。 

ヒマラヤだっていつか平原になり、また隆起して、輪廻転生を繰り返すかもしれない。

それはこの悠久の天地とマンダラだけが知っている、輪廻転生である。

5章 モ・ジャパニ・フン

 いよいよ明日は最終目的地アンナプルナベースキャンプに到着する。裏表山ネコさんが少し元気がない。謎のきなこ嬢は朝、昼、夜とシャネルメイクばっちり、各国隊と会話もばっちり。ニコンクールピクス8800をマルマーニの手袋片手に写真撮りまくり、コーチのバックを背に著名な外国の山はほとんど登っているし、高山病も問題なし、帰国翌日マルセーユに行ってしまった。こわもてスーさんは毎夜快眠快音の私と同室で遂に耐えかね、密かに番子隊長に部屋換えを直訴するも却下されてしまうのである。

 しかしどうもこの頃より私の胃袋は何か意義申し立てを訴えてきた。遠征前一度全員の顔見世公演があり、日本食をもっていくかいかないかの論争があった時、飢餓地帯に行くわけじゃなし、郷に入っては郷に従え、食い物さえあればなんとかなるさ、と強行論を唱えたのは私であった。

 しかし現実は厳しく、60年間脳細胞から足のすね毛まで味噌汁と沢庵で製造してきた私の胃袋は、毎日の揚げパンや香辛料にイヤイヤのサインを送りだしてきた。なんとなく食後もたれ気味。ここは必殺、イソジン容器に入れ替えてきた醤油を取り出し、朝は卵かけご飯を食べることにした。密かにイソジンをふりかけている私の怪しげな行動はすぐに露見することになり、皆一斉に卵かけご飯で、あっという間に必殺イソジン醤油はなくなってしまったのである。皆の思いは同じで、それからみんな少しずつ持ってきた日本食を持ち寄り食べたのは、本当においしかった。これを見ていたナワンさんが道々山菜を採取して夜食に添えてくれたおかげで、私の胃袋はなんとか不平をいわずに持ち直してくれたのである。

 朝、昼、夜とロッジあるいは道々各国のトレッキング客と会う。かつてトレッキング客のほとんどは日本人であったが、今は1/3以下におちている。代わって多くなっているのが韓国隊や中国隊で、この辺にもアジアにおける経済情勢が反映されているのだろうか。特に大部隊編成で一流品で身を固めている韓国隊が来ると、作業用手抜きをスパッツ代わりに足につけ、180円のハンズマンの庭木用手袋をはめて、ユニクロの500円で買ったTシャツを身に着けている私など、思わず揉み手しながら「アンニョンハセヨ」と言ってしまうのである。むこうはなぜか「フン、イルボニンか馴れ馴れしく声かけるなよ」といった雰囲気で、このライバル意識の根底にある歴史問題を解決するには、市町村合併のように、日韓対等合併国家(韓日かな)を樹立する以外に根本的解決法はないように思うのは極論であろうか。

 その他各国のトレッカーと楽しく交流するのですが、ヨーロッパ系の方々私に「ユアーチャイナ」私手を振りながら「ノーノー」。すると「オーコーリア」今度は両手を激しく振りながら「ノーノー」 「モ・ジャパニ・フン」(私は日本人です)。中国人や韓国人にみられてもしかたないことです。こちらも外国人は全てアメリカ人と思うのです。お互いの国籍がわかると、双方知っている限りのお国の単語や都市の名前、民謡など必死のクイズダービを展開して、お互いにヒマラヤ平和共同宣言を発し、安全祈願祭などして記念撮影となります。

 

第6章          ダンニャバート

 昼食後あと3時間で、最終目的地アンナプルナ・ベースキャンプ到達、といったあたりから裏表山ネコさんの足取りがおかしくなってきた。「大丈夫か」と問い掛けると大丈夫ですと返事はするが、目はうつろである。番子隊長と相談してしばらく横にさせることにした。標高はすでに4000m、森林限界を過ぎてはいるが羊飼いの小屋があり、可愛い子羊が乳を求めてさかんに鳴いている。裏表山ネコさんひたすら眠っているのを見て、番子隊長が私を呼んで、なんだか手や顔がむくんでいないかと問い掛けてきた。彼女と私は同じ山の会に所属している。そういえば日頃見慣れた顔よりひと回り大きい気がしたが、本人を安心させるためにも「いやー彼女はもともと太り気味だからこんなものですよ」と答えたのが、眠っているはずの彼女に聞こえたらしく、乙女心をいたく傷つけ、その後なにかにつけて、ひどいことをいったと恨まれることになってしまった。

ともかく初期高山病ではあるが、意識はしっかりしているし呼吸困難もなく、登るという意志を尊重して、更にペースを下げてビスタリービスタリー、休み休み目的地に近づいていった。メンバー一致協力し最後の急登を、山ネコさんを先頭にタルチョはためく最終地点に到達したのは、予定時間をかなりオーバーしたダルバートの匂いのする時刻であった。

かくてジャパニ「てげてげ遠征隊」今回の目的地4200mに全員無事2足歩行でたどり着きました。

その夜煌煌とした月明かりのなかに浮かび上がる、マチャプチャレやアンナプルナサウスを眺めていると、この同じ世界でちっぽけな人間が、愚かなことを繰り返していることが信じられない、しかしこの天地は何も語らず今後幾世代にわたりそれをみつめていくのである。

私自身は、生きていることの意味を知り得たような、それは裏返せば人の死ぬことの意義がわかったようで言葉や文字、理屈で表現できない魂がゆさぶられるような大きなものを感じました。

・・・・・・・・ヒマラヤよダンニャバート(ありがとう)                                                       

            

 

                             ナマステパート2「ゴウキョ」遍
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