ナマステ パート2

                                       YASU....OKAMOTO

 

《月日は百代の過客にして、行き交う年も又旅人なり》

 

第一章 番子隊長復活

20051026日午後6時宮崎空港に集合したのは、私と山ネコさん、かつてアイガー北壁に挑んだ元クライマーのさーやん、すでに登山靴を履いているのは1月間お店を閉めキリマンジャロから帰ってきたヒョウママ、高山病対策として富士山で1週間修行してきたグチ子さん、昔マッターホルン東南稜単独登頂を果たしたが、最近は時々回路が断絶するアルさん。そして、前回指揮権を奪われ、奴隷まで身分を落とした番子が、チベットカイラスで修行してみごと復活を果たし、隊長キャップをかぶり、にこにこと我々を迎えた。ここで我々は番子にパスポートをゆだね、右手をかざし忠誠を誓わされた。番子との関係は『めらんじゅ16号』と『ナマステパート1』参照。

宮崎空港から関西空港に飛び、我々の平均年齢を一気にひき下げてくれたチーコと合流して、一行8名はブーケット経由でカトマンズに向けて飛び立った。1年ぶりのカトマンズは乾季のせいかさらりとした気候で、人と車とバイクの雑然とした喧噪に満ちあふれていた。昨年一度来ただけで懐かしいとはややオーバーな表現であるが、ほこりに満ちた雑踏の中の人々の喧噪は、私たちの世代にとっては、日本の高度成長期以前の米購入手帳の記憶とオーバーラップし、タイムスリップしたかのように懐かしい顔がそこにあった。「キョロキョロするな」「脇道にそれるな」「手をだすな」「物乞いにかまうな」「偽物買うな」、番子のむち打つような叱責をあびながらも、この国一番のハイアット・リーゼントホテルが歓迎の花輪で迎えてくれた。

                                                                  ロッジの内部

第二章 空母「ルクラ」

 朝9時発のルクラ行きイエティ航空は一向に飛び立つ気配はない。全て有視界飛行の地方路線は出発地と到着地が完全有視界でなければ飛ばない。10月下旬のカトマンズ盆地は霧が多い。国際空港の横にある地方路線待合室のベンチは、ところどころイスが取れて鉄パイプがむきだしになっている。トイ  レは受け口と下部の排水のパイプがとれていて、下まで確認して用を足さなければ自分の足下に流れてくる始末である。12時近くになるとさしもの霧も晴れ、飛行場に待機していた10機近くの小型飛行機は、各国のトレッキング客と様々な荷物を腹一杯積み込んで、目的地に向けて次々に飛び立った。

例のごとく出発前に配られた綿花を、ある者は耳に、ある者は鼻にねじ込んで、ふとよぎる不安を胸に座席に座る。小さな丸窓から山腹にある集落とそれらを結ぶ糸のような赤茶けた道を見ると、一体この下に人間が営みをしていることなど現実味のない別世界のように思われてくる。機がスピードと高度を上げるにつれ、やたらに寒い。その寒さは膝近くの機体の内張の隙間から吹き込んでくる。そっとめくってみるとますます激しく吹き出してきた。どうも昨日今日の隙間でもなさそうである。今更どうなることでもないとあきらめて、ザックの中から応急用のテーピングを取り出し、二重三重に貼り30分間の飛行に耐えることにした。

イエティ航空DHC6型機は、17名の乗客を乗せて、一旦4000m程度まで高度をとると、左側にはそのどれをとっても一度は名前を聞いたことのある8000m級のヒマラヤ山脈が連なる。水平飛行10分後、徐々に高度を下げて両側に迫りくる山腹の間を縫うように飛び続けると、前方に雪を頂いたゴングラ(5808m)が迫る。その山脈の小さな棚状台地に標高2800mのルクラ飛行場が見えてきた。それは進入路から見ると絶壁の上の小さな放牧場といった様子。着陸といっても曲芸飛行のような状況で、全員が自然に不時着の構えをとる。着陸と同時に前方の山が猛烈な勢いで迫り、思わず叫びそうになるが、その手前で機がぴたりと止まる。期せずして乗客から拍手が起こる。それはパイロットの技量を称えるものではなく、無事だったことへの安堵の拍手でもあった。

滑走路に付帯するエプロンは、我が家の前の児童公園を少し大きくしたような広場で、先着の機が6機翼を重ねる様に駐機し、その後から次の飛行機が着陸態勢に入ってくる。霧の合間に次々に着陸し、全部で11機そろうと今度は次々に離陸していくのである。小さなエプロンに実に巧妙なジグソーパズルのように小型機が駐機しているさまは、まさに陸の空母そのものである。滑走路は12%以上の勾配があり、長さ300mということだが、私の両眼測距器では200mはないように見えた。着陸は登り勾配でうまい具合に山の手前で止まるが、離陸が恐ろしい。坂の上方でブレーキを踏ん張りエンジン全開。「せーの」とブレーキを外す。勾配と推力で一気に坂をかけおり、絶壁の手前でふわりと浮き上がり、いやがおうでも空中に放り出される。決してやり直しのきかない離陸である。帰るときは怖いだろうなと言いながら、次々に離陸する飛行機を見ていると、一瞬絶壁の向こうで視界から消える。「アッ、落ちた!」と叫ぶと、次にはふわふわと浮かび上がっているのである。2年ほど前ルクラ飛行場の管制塔は反政府組織により爆破されたと聞かされた。双眼鏡で見ると、八面ガラス張りの管制塔の中は、駐屯兵士の洗濯物が干してあったり、卓球台があったり、管制塔は何の役割をしているのか良くわからない。離着陸は全てパイロットの判断で行っているようであるが、いまだに事故は起こっていないから、シンプルである方が安全率は高いのかもしれない。

これが首都の空港待合室ベンチ   向こうは絶壁、離陸する機はまだ浮いていない  

 

 

第三章 安全と景観について

 “安全と景観”などと大きく出ましたが、特に深い意味はありません。論文ではなく紀行文ですので、突っ込まずにさっと読んで下さい。

ルクラに予定より遅く着いた我々8名と、ガイド1名、シェルパ2名、コック1名、ポーター4名、計15名のキャラバンは、通称エベレスト街道を、今回の目的地ゴーキョピーク(5360m)に向けてルクラの町を後にした。昨年のアンナプルナ遠征は、グルン族の農耕地で木と茅葺きの民家であったが、今回はシェルパ族で、石と牧畜の生活様式は、同じネパールとは思えないほどである。ルクラのメインストリートは、幅3mほどの石畳の道の両側に土産物や登山道具(ほとんど偽ブランド)を売る店が立ち並び、コカコーラやインターネットショップは昔からそこにあったように存在を強調していた。道の真ん中には幅40cm、深さ1mほどの側溝があり、頁岩の蓋はところどころない。常に足下を見て歩かなければ、運が良くてねんざ、悪くて骨折の痛い目を見る。

ルクラの町を離れ山岳地に入ると、綾の照葉大吊橋級の吊り橋がいくつも架かっていて、これがまた怖い。高いから怖いのでなく、耐用年数はとうに過ぎているようであり、ワイヤーは疲労でいつ切れてもおかしくない。踏み板もところどころ外れている。側方のネットは破れて、前方からロバの集団がくると、必死にワイヤーにすがりつき、「般若心経」とか、「高天原の八百万の神々」とか、その時の状況により唱えるのである。はじき飛ばされたら最後、50m下のドゥードゥコシ川に落ち、白濁した急流でしばらく渓流下りを楽しみ、二度と豚骨ラーメンを食べられない運命となるであろう。

そんなことから、安全と安心について道々考えてみた。安全については、政治・経済が絡む国と国の問題から、社会や個人など様々なケースがあるが、ここでは“自然対個人”についてである。安心とは何か。読んで字のごとく、心の問題である。安心の裏付けとして、物質的施設や条例・法律・罰則が安全策となり、安全であることから安心が保障される。これは機能と性能の関係に似ていて、機能を具体的数値で表現すると性能となることに似ている。ところが、この国は、周囲にある施設などあまり信頼できない。しかし、施設が不備な割に事故は少ない(たまにゃあるが)。安全でないのに安心である。この安全方程式の違いは何かと考えてみたとき、ある結論に達した。“安全・安心の基本は危険への知識”ではなかろうか。危険の予兆と危険の程度を認識すれば、それを避ける術を知り、本能的に防御本能が働くのである。とにかく今の日本ではあまりにも安全策だけが先走りして、危険に対する知識や教育が欠けているような気がする。えらそうに安心安全について述べているが、次章ではこの危険認知の過ちが我が隊にふりかかるのである。

さて、集落はほとんど石造りで、誇り高きシェルパ族が、ヤクやロバの牧畜、ガイド、荷運び、ロッジの経営など、主として観光を生活の糧としている。なんで誇り高きと言うのかといえば、ガイドがそう言っただけで、特に誇りを目撃したわけでもない。もともといかなる民族も、子孫繁栄を願い、闘争を繰り返してきた誇り高き者である。この街道周辺で、飛行場も近くにあり、病院もあるのがクムジュンの村である。エベレスト初登頂を果たしたヒラリー卿が学校・病院の建設に力を注いだクムジュンの集落は、丘の斜面に整然と並んだきれいな集落で、昔は緑豊かな地区であったらしいが、入会権の紛争で競争して樹木を切ったため、今では一面のはげ山となっている。昔を知らずに今訪れてみると、きれいに並んだ集落は、背後の氷河と澄んだ青空にマッチして景観的に優れた印象を与えるが、何かしら不自然さをぬぐえない。

景観とは何かを考えるとき、周辺の歴史や、民族性などの背景、文化等総合的にとらえないと、ちぐはぐな結果となる。もしカトマンズの町が整然とした町並みであったら、何の面白味もないし、南米の都市があのけばけばしさがなく落ち着いた色彩の町並みであったら、少しがっかりするかもしれない。景観には、@自然だけの景観、A自然と人工の混在する景観、B人工だけの景観がある。八紘一宇のもとに平和台が建立された当時、宮崎市の景観はかなり損なわれたはずである。しかし今はさほどの違和感を与えていない。50年経てば風物になり、100年経てば風景になると言われているように、景観も、誰が、いつ、どこを見るか。さらには長い年月で見る必要があるようです。私は、この景観を堪能しつつ、自己の年齢を考えたとき、安全である最高到達標高は7000mが限界かなと、来年の目標を設定した。安全と景観、この2つの脈絡のない課題の共通点として、書物で学ぶのではなく、最も手近な教材である自然の中に身を置き、自然に学ぶことが基本であると、何だか無理なこじつけをしてみた。なぜなら、みんないずれ自然に還るのだから……。

  

道の真ん中にある側溝(たまに蓋がない)  落ちたら架け替えるだろうか            小型水力発電機


第四章 ネコが落ちた

 カトマンズ盆地は日本より南に位置するが、標高が1400mと高いため、宮崎と似たような気候です。もっともネパール全体では、標高200mの亜熱帯から、8000mの氷河地帯まで多種多様な気候に、多くの民族と、ヒンズー教、イスラム教、ラマ教、それらの混沌とした「メランジュ」そのものの文化が存在する。今回はカトマンズから一気に標高2800m、日本でいえば剣岳とほぼ同じ高さのルクラまで飛行機で高度を稼ぎ、5300mに7日間で到達する予定である。道中一番恐ろしいのは高山病である。なにしろ日本では経験できない高度であるから、来てみなければわからない。最近は、中国製の高原安とか、ダイアモックス等が予防薬として効果があるとして用いられている。我々のメンバーもそれぞれ服用していたようだが、正当派を自認する私は一切薬に頼らないことにした。高地では呼吸数が多くなる。呼吸により体内の水分の蒸発量が増える。その結果のどが乾く。そして体内の新陳代謝を活発にするために水分を大量に飲むのであるが、これが夜中のトイレ回数を増やすことになる。低地でも夜のトイレは辛いのだが、就寝中の代謝機能の低下した体にとって、高地での夜中のトイレほど辛いものはない。意を決してトイレに行き、帰って寝袋にもぐっても10分くらいは肩で息をするくらい辛い作業です。

トレッキング5日目、マッチェルモ(標高4400m)でのことである。朝、騒々しい声で起こされた。隣室に行くと山ネコさんが苦痛に耐えて横たわっていた。聞けば、昨夜トイレに行き、夜空の星を見たとたん足下がおろそかになり、3mくらい滑落したそうである。股関節の痛みと状況から骨折が考えられた。昨夜他のトッレキング客からここに医師がいる話を聞いたことを思い出し、周辺のロッジに医師探しに出かけた。周辺ロッジで外国人と見ると、手当たり次第「ユー アー ドクター?」と声をかけたが、「ノーノー」の返事にあきらめかけたとき、4軒目のロッジで190cm 位ののっぽのドイツ人とおぼしき人物が「オー、イエース」と言ってくれた。商売人は華僑、医者ならドイツ人と昔から相場が決まっている。英語が通じるかなと一瞬思ったが、とにかく骨折を伝えたい。骨は何と言うのかな。そうだ、フィッシュボーンという組織図があったから、ボーンだ。それから、骨折は。うーんわからん。そうだ、ここにレントゲンがあるか聞かなくては。「ジスイズ レントゲン?」、いや違う、ともかくレントゲンだ。「レントゲン レントゲン」、ところがそれは一向に通じない(ばかもの、医者がレントゲンを知らなくてどうする)。そうだ、エックス線はキュリー婦人だ。「マダムキュリー」、これも通じない。両手を大きく広げるばかり。

そのとき、ドクターの隣にいた豊満なナースとおぼしき女性が私に紙と鉛筆を差し出した。私はいきなりその豊満な胸をわしづかみ、いや、紙をわしづかみにして骨格の標本図を書いた。まず頭蓋骨、あばら骨は何本だったかな。ろっ骨と言われるるから6本だろう。すいすいと書く手がはたと止まった。骨盤は女性と男性とどう違うのだろうか。いや困った。万事テストテストの日本式教育は、ここでいい点を取らなくてはと余計な方向へと頭が働く。とにかく中心部によけいな縦線を描かなけりゃ女性と判断するだろう。足と手の指はきっちり5本ずつあるか確認して、その労作を胸にかざし、息を大きく吸い込み、「バシャッ」と言って差し出した。2人は「オー、エクスレイ」と言った。皆さん、レントゲンはエクスレイです。そして彼らはアメリカ人でした。その瞬間、私の語学力から、エーペックエンジニアの夢ははかなくもヒマラヤの氷河の中に凍結されてしまった。しかし、その骨格標本図は長らくネパールの医学書にジャポニボーン図として残される……わけはないな。ナースが私のそばに来ると、横のベットを指差した。私は言われるまま下着を取り、ベットに横たわった。いや、違う。「ノーノー、マイフレンド イエスタデイ ゴー ツー トイレ アンド スリップ アンド ペインペイン」、今度はわかってくれた。すぐに鞄を取り上げて往診してくれた。レントゲンは5日離れたクンデ村しかないそうである。医師の診察結果は股関節骨折の疑い濃厚とのことである。もはや登頂の望みはなく、降ろして一刻も早く病院に収容する手続をとることになった。

医師の衛星電話での要請によりヘリが来ることになったが、ヘリ乗り逃げの多さから、ヘリ代及び医者代は現金前払いである。いずれ保険が出るので、医者代2万円、ヘリ代42万円を支払い、みんなでネコさんをヤクの放牧場に運んでヘリを待った。1時間待ってもヘリはこない。空腹と寒さでみんな沈痛な面持ちでヘリを待った。2時間待ってもこない。どうしたんだろう。3時間過ぎた頃かすかにパタパタと音が聞こえてきた。やがて山腹をかすめるように、小さな、本当に小さなトンボのようなBELL47型が飛んできた。必死に手を振る我々の上空を旋回すると、なぜかみんな「万歳、万歳」と言ってしまうのである。DNA鑑定技術が向上すると、日本人の場合、両手を挙げた万歳遺伝子があって、それが他民族と識別する有効な証拠となる日がくるであろう。パイロットは空港カウンターの若い娘にふられたのかやたらに機嫌が悪く、ネコさんとガイドの照悟さんを積むと、荷物の積み込みを拒絶して窓からほうり投げてしまった。そして前にいた我々に退けと手で合図すると、垂直でなく10度くらいの角度で飛び上がり、いとも頼りない様子で、夏に蚊が腹一杯血を吸ってよたよた飛ぶあのさまと同じ飛び方で山陰に消えていった。後で聞いた話だが、小さなヘリは4000mでは浮力が足らず、燃料もわずかしか積まず、途中の中継地で給油して飛ぶそうである。我々旅の仲間7名は機影の消えた方向に頭を垂れて、ネコさんの冥福を、いや回復を祈ると、旅が続けられる喜びをおし隠し、沈痛な表情を維持しつつ、空腹を満たして、ゴーキョピークに向かってマッチェルモを後にした.

アマダマラム                       流痕か節理か                空より青いドウトウポカリ     

第五章 天空への道 

 2005113日朝食のメニューは、はるばる運んできた日本の米とみそ汁、海苔、尾頭付き魚(丸干し)で全員登頂祈願の気勢をあげた。ゴーキョ(4750m)からピーク(5360m)までは標高差610m、ピークは韓国岳のようであるが、なにしろ5000mの世界である。登るにつれて呼吸が荒くなる。頂はすぐそこに見えているのに、登っても登っても着かない。ネパールに着いてから今日まで実にきれいな日本晴れ(ネパール晴れ)が続いてきた。その日も、見上げる頂上にはタルチョがはためき、天空に連なっている。空気は地上の1/2、時間が永遠に続く斗いをしているような錯覚にとらわれた。

まもなく、見上げる上には青空しかない空間、そこがゴーキョピークだった。眼下に真っ青な氷河湖ドゥードゥポカリ、それを取り巻くンゴズンバ氷河、眼を転ずれば、北にはチョー・オユー(8153m)・ギャチュンカン(7922m)・指呼にエベレスト(8848m)・ローッエ(8511m)、かなたにマカルー(8481m)。天に突き上げるその突端からは雪煙が薄くたなびき、私の人生最大の絶景に言葉もなく、カメラのシャッターを押すことさえ自然への冒涜ではなかろうかとためらうほどであった。若き日の憧憬のヒマラヤは、歳月が巡りようやくここにある。この先もここに純白の氷河と藍色の空が永遠に続くことを願い、いつまでもピークに立ちつづけた。

(用語の解説)

ヤク    高地の荷役に使われる。牛科だが一見でっかい長毛の山羊みたい。「肉が食いてえ」ストライキをしたらヤの肉が出た。硬かったが久々の肉はうまかった

ゾッキョ  3000m以下の荷役に使われるヤクと水牛の混血。ヤクもゾッキョもトッレキング客をよけてくれるお利口さん

ロバ    シェルパによると、ロバは馬鹿だから、はじき飛ばされないように避ける。ロバの飼い主はロバより馬鹿だ要注意と言われた。 

ストーブ  燃料はヤクの糞を乾燥させたもので結構火力がある。ヤク糞をご進物用に輸入販売しようと考えているが…

エコトイレ 済んだら横に積んである落ち葉を落とす。うっかりすると穴がわからず自分が落ちる。

       紙の使用をいかに少なくするか会員のみ特別伝授

平地のネパール式手動水洗               エコトイレ

マニ車   回転する中に経文が入っている。一回まわすと一回御経を唱えたことになる。片手で持つ大きさから車大ま          で様々 

          ククリ   ゴルカの三日月型のナイフ、人妻にちょっかい出して首を切られた日本人がいるらしい


                     

まずヤクの糞を天日で乾燥する             乾燥糞の貯蔵庫           ヤク糞ストーブ 火力がある(有料)

月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死しせるあり。予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて、漂白の思ひやまず・・・(100年)・・・ああ汝 寂寥の人, 悲しき落日の坂を登りて, 意志なき断崖を漂泊ひ行けど いづこに家郷はあらざるべし。汝の家郷は有らざるべし。松尾芭蕉・萩原朔太郎


                          キリマンジャロコーヒは旨かった

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