ジャンボージャンボー

yasu oka

    キリマンジャロは、高さ19710フィートの、雪におおわれた山で、アフリカ第一の高峰だといわれる。その西の頂はマサイ語で“神の家”と呼ばれ、その西の山頂のすぐそばには、ひからびて凍りついた一頭の豹の屍(しかばね)が横たわっている。そんな高いところまで、その豹が何を求めてきたのか、いままで誰も説明したものがいない。  ヘミングウエイ「キリマンジャロの雪」より

 

始めに  

 キリマンジャロ登山から帰った途端「めらんじゅ」原稿の締め切りが三日しか残っていなかった。

今まで執拗に原稿を督促していた手前降りる訳にはいきそうにない。低酸素の後遺症と花粉症のダブルパンチのなか、なにか記憶に残る出来事を書かないといけないが、現実と妄想と痴呆の交錯する頭は、まとまりのつかないことばかり、しかし所詮この世はうたかたの仮の宿、願わくばよりしばらくは安寧に眠れることを祈るばかりである

 

ギボハット

  200937日現地時間17時、我々は標高4700mタンザニアは、キリマンジャロ登山の最終山小屋ギボハットに着いた。日本の関西空港を229日深夜に立ち、ドバイ・ナイロビ・キリマンジャロ空港と搭乗計15時間トランジット計10時間、いつ夜になったのか、いつ夜が明けたのか定かでないまま、窮屈な座席でうたたねをくりかえしながら、合間合間に、だんだん日本料理からかけ離れていく機内食、それでも胃袋に押し込みようやくウサのホテル「ディク・ディク」に着いた。翌々日10人の隊員と32名のポーターは、20人乗りのマイクロに折り重なるように乗り、登山基地マランゲートから入山3泊目にようやく最終地点ギボハットに着いたのである。 到着後すぐ夕食、先行するコックポーターの料理は、ほぼ毎日同じメニューでトマトスープ、かなり顎のくたびれる硬パン、かちかちバター、ハム、フルーツ類等である。夕食後18時には寝袋にいって就寝、なぜなら今日は23時に起床して、深夜0時に出発の予定です。上下二段のベッドの上段に寝袋にくるまって寝るのですが、疲労と食欲不振と、登頂の興奮は意思とはかけ離れた、肉体の遊離をおこしたようでなかなか寝られるものではありません。
 

 歩いてもあるいても           サドル地帯が続く                        氷河もわずか     最後の山小屋「ギボハット」

   高山病

  高山病についての医学的見解について述べるつもりはありません。只過去何度か3000m以上の高山で見聞きした事例でお話いたしますと、大気中に存在する酸素量は21%といわれていますが、標高2000mくらいまでは人間の適応能力の許容範囲なのか、あまり高山病になった人はみかけませんでした。日本でも3000m級になると、時折気分が悪くなった人がいて山小屋備え付けの酸素吸入をしたり、下山しているのをみかけます。一般に高山病は体質といわれますが、酸素取り込み量が減れば身体の活動に影響がでるのは当たり前です。高山病になりやすい人は、環境変化をいち早く反応出来る鋭敏な人で、カナリアのような酸素濃度指標人と思われます。 3000mを越えてくると、大なり小なりなんらかの体調の変化が誰にでも現れてきます。食欲不振、頭痛、睡眠不足、下痢、便秘、それが軽ければなんとか持ちこたえますが、重篤な症状になった場合治療方法は標高を下げる以外にないといわれています。ただ人間の体は良くできていて、慣らす馴れる成す、といった多少の環境変化に対応できるのは、臭いに対して順応するのは誰でも経験済みです。今回の遠征にたいしては、二度とはこれない箇所だし、是非とも最高点ウフルピーク5895mに立ちたいとの思いから、出発前に出来る準備はなるたけやっておこうとと考えました。もうー減価償却も終えた体ですが、心臓・肺・胃・腸の検査、その他血液検査と、更に出発1週間前から低酸素訓練・・これは常圧ですが、取り込み酸素量を半分以下に落として、体に負荷をかけての訓練です。腕に脈拍と血中酸素濃度(SpO2)の計測機械をとりつけて負荷をかけると、平地では90%以上の血中酸素濃度ですが、いっきに70%以下に低下して、脈拍も130以上になります。それを腹

式呼吸に慣れると、酸素取り込み量が増えSpO2,90%以上に脈拍100以下にもっていくことが出来ます。ギボハットは4700mですから、いくら訓練や経験があってもそれぞれの肉体の一番弱いところに症状がでてきます。私の場合ネパールで経験していた食欲不振がやはりおこりました。 

低酸素訓練                 パルスオキシメーター       準備中              ドバイ
               脈拍と血中酸素濃度測定

   

ポレポレ

 現地時間23時ギボハット・・・「起きて下さい」の声が遠くから段々近づいてくる。ハットして起きようと寝袋の中でもがき顔を出すと、すでにみんな起きて太陽光発電の乏しい電球のもとに、食事の用意がされていた。ここギボハットは登頂用の仮宿泊の施設で、4時間ほどの睡眠の後食事をすませ、深夜0時に一斉に登頂を開始いたします。今朝という言うか、今夜と言うか、登頂日とあって米の雑炊にインスタントみそ汁、卵焼きを無理矢理流し込みました。登山の3原則、食う寝る出す、食後に渓谷に張り出し式に設置されているトイレで、快調に作業を終えるとよし登るぞと全身に志気がみなぎるようでした。広場には40本ほどのヘッドランプの線が交差していて、すでに上のほうにも幾つかの灯りが点々と連なっている。現地ガイドのサルーンさんを先頭に私達10名と日本人ツァーリーダと登頂ポーター4名の計16名はポレポレ(ゆっくりゆっくり)と言いつつ登山を開始した。 火山のざらざらの砂場の急傾斜地にジグザグに付けられた道をゆっくりゆっくり高度を上げて行きます。上のほうにも下のほうにも日本・カナダ・ドイツ・スイス・と国際色豊かなな光の輪が続きます。私達は某登山専門ツアー会社の募集に応じた、一癖も二癖もある人たちで構成されていて、中でも私を含めた4名は偶然同学年であることからすぐに意気投合した。それぞれ社会の不条理と戦い上司の圧力と部下の突き上げの軋轢に耐え鍛え抜かれた4名は、久々に学生時代の合宿生活に戻ったようで、旅は一層楽しくなり、馬鹿乱痴気騒ぎの一歩手前であった。山小屋の4人部屋では夜6時頃麻雀牌を持ってこなかったのは残念だと、元商社マンのノブさんがウイスキー片手にぼやくと、精力剤を飲みながら元みなみの、やっちゃん(薬剤師)がほんまや、ほんまや、と同調する。あーみんなのいびきがうるさくて、とデリケートとは関係ない顔で「眠れん、眠れん」の言葉を発しながら、最初にいびきをかく元ホンダマレシャーの荒さん、唯一の良識派を自認する私の4名です


ホロンボハットの山小屋        山小屋内部       太陽発電        トイレまがいのシャワー室

 

標高5000m

 私の場合高地トレッキングは一応の目安は5000mにおいています、5000を越えればあとは頑張りでなんとかなると考えていました。出発後2時間ほどでそっと高度計をみると、5000をわずかに越えていましたが、息苦しさも頭痛も無いのでホットいたしました。我々は毎朝、毎夜パルスオキシメータで脈拍、血中酸素濃度(SpO2)をチェックして,SpO265%を切れば登山中止となります、その為高地トレーニングも有効ですが、最近ではダイアモックスの服用も効果があると言うことで、それぞれ持っています。ダイアモックスは血液の流れを良くすると同時に利尿作用もあるので夜半のトイレが大問題です、もっとも血液を濃縮させないため、一日2gの水は摂取しないといけないので、どっちにしてもトイレは大変です。夜中に誰かがごそごそ起きると全員起きてつれションは2時間おきくらいの頻度にあります。疲れているのでそれでも帰るとすぐ寝れます、私の高所の食欲不振は経験済みなので、今回は携帯用の高エネルギーの流動食を持っていき、意識的に休憩時に摂取いたしました。天候には恵まれてこの夜は満天の星空が手も届くようにきらめき、南30度くらいの中空には南十時星が輝いていました。5000mを越えるあたりからそれぞれ高山の兆候が現れてきます。参加者は一応経歴審査を行って参加していますから、各人それぞれに自意識は高くそれなりに高所の自信は持っていますが、だから大丈夫といった保証はなく、全くその時の体調によるものです。最初の兆候は隊では一番若い女性でした、話ではかなりの経験者でしたが、まずヘッドランプの灯りが暗いと言いだしはじめましたので、見るとそれほど暗いとは思えません、そしてトイレがしたいと休憩となりました。次はポーターが唄っているのが我々はまことに心地良いリズムで良かったのですが、それがとてもうるさく耳障りだからやめろと萩の晋さんが言い出して、私があんたのほうがうるさいと言ったら、もーかなりヒステリックになってしまいました。そんなこんなでとてもスローリズムで30分置きに休憩を繰り返し、なんだかリズムが狂って疲労ばかりが累積するような気分でした。6時間後東の空があかね色に輝く、独特のギザギザの岩峰のマウェンジ峰(5120m)が明るくなっていく、大アフリカの夜明けだ大地の目覚めだ、人類の起源といわれるアフリカの大地を46億年前もこの陽は照らしたのだろうかと、凄く当たり前のことが感動的に思うのは高額遠征費のせいか、高山のせいかいざ知らず。現地時間200938日午前730分予定より約1時間30分の遅れでアフリカはタンザニア・キリマンジャロ頂上ギルマンズポイント5685mにわれわれ10名は到達した。   

   マウェンジ峰に陽のぼり大地の夜明け        ギルマンズポイント     氷雪は少なかった

ジャンボー

  登山中も行き交うトレッカーとの挨拶や、ポーターとの朝晩の挨拶はジャンボー(スワヒリ語のこんにちは)がひんぱんに出てくる。そもそもキリマンジャロに登ろうと考えたのは、一昨年ネパールのゴウキョピーク5300mに登った時である、高山でかなりのダメージを覚悟していたのが、以外と簡単であったことに気を良くして、生涯出来るだけ高い所に登ってみたいといった単純な動機からであった。よく山は逃げないといわれるが、私くらいの年齢になると年々不利な状況は大きくなっていく。案ずるよりは産むかとネットで検索した公募に応じたのが昨年の12月でした。そんな訳でアフリカの為になにかするとか、アフリカの地質について調査するとかとは無縁で、只キリマンジャロに登るその一点だけです。といってもやはりいくまでに多少の知識としてタンザニアはどこにあるかくらいは調べました。地球儀でみてアフリカ大陸のタンザニアを正確に指すことの出来る人はあまりいないのではないでしょうか。広いアフリカ大陸に大小50以上の国があるのですから、日本地図でさえ正確に宮崎県の位置を指すことが出来ない人の多い現状では当たり前のことのようです。飛行機がアフリカ大陸の上を飛ぶ時、いくら目をこらして下を眺めてもまったくの原野かジャングルが延々と何時間も続くのをみると、ここに国境を引いた事自体植民地支配の名残のような気がいたします。元々はドイツの植民地で第一次世界大戦後はイギリスの保護区となり1963年ザンジバル島とともに独立しバンツゥー系アフリカ人(スクマ人、チャガ人、ニャムウェジ人など)が多数で20%程度のマサイ人などもいる。100以上の部族があり公用語はスワヒリ語と英語で、産業は農業が主である。セレンゲティ国立公園(世界遺産)キリマンジャロ国立公園(世界遺産)ンゴロンゴロ保全地域(世界遺産)セルース猟獣保護区(世界遺産)等の観光資源に力をいれていて、世界中から多くの観光客が訪れている、タンザニア初日に泊まった外資の「ディクディク」ホテルは、ここの敷地がすごい、広大なアフリカといえ一ホテルがこれほど必要かと思えるような敷地に、ホテルから農園、牧場と宮崎市内の半分程度の規模で、キリマンジャロ登山ツアーの一切を請け負っていたようである。翌日と翌日は時差調整と観光をかねてマニヤラ湖のサファリを楽しみました。マニヤラ湖は大地溝帯(グレート・リフト・バレー)の底にあるソーダ性の湖で森林帯や草原や動物の生活環境に富んだ公園です。行く途中は日本のODAの援助で作ったどこまでも一直線の道路をトヨタのサーフの改良型で120k位で飛ばすのがサファリ以上のスリルです。どこまでも続く草原にはマサイの伝統家屋が点在し、牛を追うマサイの人が突然現れたり道路を歩いたりしていました。彼らにはもともと部族はあっても国境などなかったはず、大地を生活するため自由に行ききしていたのに・

・・

日本ODAの道路             バオバオの木         力があればみんな奥さん     マサイの牛糞家屋

 

ウフルピークへ

 ギルマンズポイントにようやくたどりついた、10名はすかさずpsoチェックが待っていた。その結果一名は即下山が決まり、3名はきわどい数値ながら自己判断にゆだねられた。ここまできたら最高点に行きたい、との結果9名は更に200m上をめざすことになった。たかが200m上がるとは簡単なようですが、pso65%以下の人にとっては動くことはとても辛い作業です、幸い私は安静時85%深呼吸90%と、長い学校生活でもとったことのない高得点でしたので、ゆっくり歩く分にはそれほど負担は感じませんせんでした。出発して30分後一人が遅れ顔がややむくんできた、そして下山、更に10分後2人が遅れ始め盛んに二人は眠い眠い言ってダウン、そして下山、残った6名はぐんと近づいた氷河の頂点をめざした。途中アイスバーンでアイゼンをつけるかとためらったが、各国の人やポーターがアイゼンを装着していないので、スリップしないように注意深く氷りの上を進みました。ギルマンズポイントから2時間後もうーそれより辺りに高い所は無い場所、そこがアフリカ最高地点ウフルピーク5895mでした、感慨よりもあー登らなくていいんだとその方が嬉しかったよーです。ウフルピークには、タンザニア初代大統領ジュリアス・ニエレレの「 絶望あるところに希望を、 憎悪のあるところに尊厳を与えるために・・・」と書かれたレリーフがあります。レリーフの前半は素直に受け取れますが、後半となると、とてもとても生きてる内にこんなりっぱな人間になれそうにないなとウフル(自由)を後にした。時間に遅れが出ているために急いだのがいけなかった。帰る途中のわずかな登り帰しが、とてもきつい坂に感じて何度も立ち止まり休憩した。ようやくギルマンズポイントまで引き返し、一気に1000m下るのだが、これがとんでもない、富士山の砂走りのような急傾斜の坂を足をつっぱり1時間下ると、足のももは、ぱんぱんに腫れて、下っても下っても遥か下のギボハットは近づかない。高山病で両脇をポーター支えられた、外国人(日本人以外)が苦しそうに降りている。やっとの思いでギボハットにたどり着くと、先に降りた人からおめでとうといわれるのが何となく悪いことをしたような気分でした。そこで一休みすると更に3時間降りたホロンボハット3700m がその日の宿泊予定地のため更に下ることの長いこと遠いこと、結局その日は16時間歩き続けたことになり、登るより下りの厳しい山キリマンジャロであった。

 ウフルピークまでが遠い        問題の氷河        標高約600mまだまだ正常     帰りは辛い果てしなく歩く

 

終わりに

 いつも登山中に思うのだが、その国に生まれたらとても登山など遊びどころか、ポーターでも出来ないだろうと思う、かって日本の山が強力達によって荷物を運んでいたが、ネパールではロバやヤクが荷揚げをしている。 キリマンジャロは環境保護と雇用の確保から、荷物運びは全て人力である、かなり重そうな荷物を頭に載せて運ぶポーターはいくら慣れているといっても、3000m以上の希薄な空気ではかなりの重労働であろう、そしてその収入は決して高いものでもない自由の大地が列強の欲望からずたずたに分割されそのままに独立しつつ、又各種鉱物資源や熱帯雨林問題から内戦、飢餓と新たな紛争の種をふくらましながらも、私の出会ったネパールもタンザニアの人たちも貧しいが、本当に明るかった。

20人乗りに40人のっていた   父親は一人か       地平線を始めて見た      人類誕生の大地溝帯


余話

またいつものように、値切りまくりの買い物はタンザニア経済にいくばくかの貢献をした。

  海外にいく都度、英会話の必要性を痛感して帰り、3日ほど練習して止めてしまった

   山小屋のシャワー場におしっこをして叱られた、 実にまぎらわしい。 

   ツアーリーダーはだんだん機嫌が悪くなっていった。なぜだろうーなー

  ポーターは夜になるとどこにいるかわからない。  

  協力隊の高田さんには会えなかった、本当にすごいところにいるんだ。  

  食は文化だ、日本料理は最高だ、帰って食べまくり5k増加のメタボになった。

 

                              紀行文称好玉山

次回超-お-湯ー(チョーオーユ)はきつかったにご期待を!  
 


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