玉山登山記
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                        yasu oka

 旅はいつも妄想から始まる

 ニイタカヤマに登りたいと、台湾生まれの押領司さんがかなり以前から言っていた。今も目をつぶると、懐かしい幼少の頃台湾の山河が瞼に浮かぶそうだ。話が具体化したのは19年の忘年会の席で、鈴木さんと宮崎→台湾直行便が206月から就航するらしい、できたら玉山にいこうかと話がはずんだ。

しかし年を越えると、二月末のキリマンジャロが具体的になりしばらく頭の片隅にしまい込んでいた。キリマンから帰り四月にいると、あの話どうなったのと、ニ、三の会員から問い合わせがはいりあわてて調査を開始した。

調べれば玉山は入山審査があり、許可が30日前出るらしい。登山には現地ガイドの同行が条件、それから航空券の入手と、一般人の手にあまる複雑奇々怪々な手順にめんどうになり、近くの旅行代理店に話を持っていった。代理店も6月に企画している所で、費用は概略17万位と言うことである。一瞬「高い」山の中で粗食を食わして、歩くのだから12万そこそこと思っていた。とりあえず検討します、と言って帰り以前会社にバイトにきていた台湾からの留学生の陳さんを捜すことにした。彼なら随分昼飯を奢ったり、日本語を教えてやったから今頃帰国して、いい身分になっているはずで、もしかしてベンツかなんかで登山口まで送り迎えしてくれ、北京ダックを差し入れしてくれるかもしれない。なんて虫のいい話ばかり考えて、いろいろ問い合わせしてみたが、一週間たっても所在は不明であった。結局旅行代理店に手続きをゆだねることにした。

     

 

明日は予期せぬことばかり

 出発7日前突然突然台風が発生し、インドネシアでフェリーを転覆させ進路を台湾に向けた。希望は絶望になり、進路予報に一喜一憂する日々となった。しかし気象庁の予想図はあまりにカーブが急激で、無理にも台湾に台風が接近するようになっている。おかしいーこんなはずはない、私は予想図に自分流の三次放物線を描くと、台風は台湾をはずれて中国大陸に向かうはずである。その日から台風の進路は西に向かい始め、絶望は希望に妄想は現実へと変身していった。

26930分宮崎空港に集合した山楽会13名と、一般参加3名は、6月就航したばかりのエバー航空MD300のスマートな機体に乗り込んだ。機内はそれぞれ日本人、台湾人半々でほぼ満席でした。話声さえ聞かなければほとんど国籍の区別は着きませんが、国籍を当てよと言う質問が出れば、まず60才から上は間違いなく、日本人とすればほぼ間違いないようです。台湾まで所要時間2時間20分東京とほぼ同じですが、やはり台湾といえども海外遠征ともなると胸の高鳴りは押さえようがない。

 

    

 

びんろうは熟した

 ほぼ予定通りの時間で、機は桃園国際空港へ着くと、現地ツアー会社の湖さんが満面の笑みで迎えてくれた。我々全員が福沢諭吉にみえたのかなー。

貸し切りバスで嘉義まで移動、同じ漢字文化圏はハングル国より異国的感覚は湧かない。昨日までの台風騒動はうそのような天気、道すがらヤシともシュロともつかないびんろうの樹が、たわわに実を付けている。大きめのドングリの実くらいで、やや黄色みを帯びた一房4、50個位でびっしりと幾つも実がなっている。当初は自然樹と見えたがどうも栽培らしい。山腹から畑の周囲一面の栽培地に加藤さんとあの実はなんにするのだろう。食べるのかなー、いやなんかの原料につかうのだろうと、いろいろ推測しながらわからない。ガイドの湖さんに聞いてみた。すると台湾ではびんろうの実を気つけ薬として常用しているらしい。

     

実をくちゃくちゃと咬み、真っ赤なツバをぺっぺっと掃き散らすと、外国人から喀血していると思われるらしい。その効果は抜群で、南米のコカに劣らない覚醒的作用があるらしく、事務労働者、運転者、肉体労働者、これなしでは仕事はこなせない。しかも習慣性があるためその需要は多く、東南アジアから輸入までしていると言うことだ。しかし麻薬的作用や発ガン物質があるため最近政府から禁止通達が出されたのだ。といっても道中のあちらこちらには、小さな出店があやしげな看板をかかげて今だ営業しているみたいである。かつては売る為に過激なスタイルの娘さんが呼び込みしていたらしく、びんろうだけの店なのかなんの店なのか、よくわからないのが多く目につきました。夕方の5時に、台中にある宮崎で言えば日向市程度の田舎町嘉義に到着。以外とこぎれいな中信大飯店で、四川料理に舌鼓をうち明日からの登山準備を整え10時頃就寝・

  

 

山賊のようなガイド 嘉義〜タタカ バス1時間30分

山にいくと朝寝が出来ない、リタイヤしてからなにがうれしいかといえば朝寝である。好きな高杉晋作の唄に「三千世界のカラスを殺してぬしと朝寝がしてみたい」ぬしはいないが、朝寝は出来る。通常起きるのは9時頃であるが、学生時代起きるのはは昼過ぎだった。それに比べたら年を取った分、随分と早起きになったようだ。誰かが体を揺すっている、かなたの記憶が戻ってくる、しばらく置かれ状況を認識するまで時間がかかる。同室の守田さんだ、今は記憶がいやいやしながらも戻ってきてくれるからいいけど、これが戻ってこなくなったらと、時々ぞっとする。ホテルの朝は、いずこもバイキングこれがいけない。ついつい食い貯めして胃がもたれる。バスは阿里山国家公園の急勾配のヘヤーピンをのろのろ登る、相変わらずのびんろうの林がいつのまにか茶畑に変わる

  

 

有名な阿里山ウーロン茶畑に時折農家が点在する、1時間半で入山事務所上東埔着、そこで我々のガイドをしてくれる王(山兵)が紹介された。昔の馬喰のような迷彩のニッカボッカのズボンに、長靴山賊顔の王さんいきなり中国語、日本語、英語で諸注意を大声で、身振り手振りでどなり始める。いわんとすることは、ガイドの自分より先に歩かないこと休憩といったら、梅干しを食べて水を飲むこと、それが高山病の予防だと。そんなことを何度も言っているので、女性隊員はすっかり恐怖を感じたらしい。こりゃいかんこんな調子では迫力負けしてしまう。そこで私得意のアイスブレーキングをやらなきゃー。一息ついた王さんの側に寄りもうーわたしゃーひんだれたからあんたここから負んぶして登ってくれ、と身振り手振りで彼の背に乗る仕草をしたら思わず笑い転げて、一転王さんユーモア人へと変身してしまった。タタカ峠200mまでシャトルバスで登り、11時30分いよいよ玉山の地に足を踏み入れた

    

 

王さん待って タタカ〜排雲山荘 徒歩6時間

出発前山小屋は水が無い、高山は水分を多めに取ること、この二つの条件の為みんな水をたっぷりザックにいれてきた。少ない人で3リットル私はもしかと6リットルに歩き飲む分2リットル。久々のいやな重量が両肩にくる。とにかくザックに担ぐ時、同じ重量でも水と石は重い。かって6000mの高山で、資料の石を10k担いだ時もー死ぬかと思うほど辛かった、普通の食料とか一般装備だと屋久島で15k程度がそれほど苦にならなかった。このへんは比重と重力が影響しているのかと考えたりする。

    

 ゆっくり行きますの王さんのリズムは早い、道はゆっくりした勾配30分でタイム、梅干し水また進む、いやこのリズムだとへばる。いかんペースを自分達のリズムに落とす。王さん立ち止まり手を振りゴオーゴオー知らんぷり、知らんぷり。すでに1時間経過、王さんに「ランチランチ」と言うと、あと少しでランチ場所に着くと言う。行動食を摂ろうかと思うが、あと少しならと我慢して歩く2時間経過、現地時間1時半やや語気強く、「メシダー王さんメシダ」と叫ぶーあとちょっと言う。そして2時に四阿(あずまや)風のところに着くと、ここが食事場所だいわれる。しかしみんな体調が狂い食欲が湧かない、この辺のガイドの指導は異国でコミュニュケーションがまずい。国家公園で食事場所が指定されているのか、ゆっくりくつろげる場所までとの親切心かしらず。行動食を持っていながら摂取しなかった、自分たちのミスにも責任があった。この出始めの狂いが、今後の各人の体調に微妙な陰を落とすこととなる。標高3000m遅い昼食を水で流し込み、又のろのろてれてれいくつかの断崖をトラバースし、整備された木橋を渡り午後5時過ぎ3400m拝雲山荘着。 

     

暮れゆく異国の山に

 拝雲山荘は若い中国人でいっぱい、若いものは元気がいい表のテーブルで、喰らい語り唄い飲んでいる。わがやまとんちゅうは、よれよれぼろぼろ指定された部屋で倒れるように休憩。ほどなく王さんから食事の用意ができたの連絡。重い腰をテーブルにすえる。ボールはみそ汁風、ご飯、サラダ、魚のてんぷら、ウインナー、うなぎとにかく喰わなきゃーごはんにふりかけをして食べる。なんとか食べれそうだ、台湾産のうなぎ偽装表示じゃない、正真正銘の台湾産うなぎが以外とうまい。2切れ目、すきみて3切れ目、またおまけにも一切れ、うーんこれで馬力がついた、明日は登れそうだ。天気も良さそうだ、みんなも大なり小なり食べたようで、食後部屋で寝る準備をする。貸与された寝袋はチャックが壊れたものが多い。だからYKKを使いなさいと、いいたいくらいだった。就寝前に全員のSpO2(血中酸素濃度)を測定する。全員80以上で安心する。みんなに今夜は寝むれなくても登れますから心配いりませんと、告げて一番先にいびきをかいていたのは私だったらしい。かくて玉山の夜はいびきの合唱とともに更けていった。

 

玉山は闇の中 排雲山荘〜玉山主山頂 2時間30分

 翌夜半1時起床、すでに雑炊ができている。昨夜遅くまで我々の食事の後かたづけや就寝の手はずをしていた王さんはいつ寝たのか、すでに雑炊を食べろ食べろと手招いている。就寝中は新陳代謝機能が落ちる、SpO2が低い人が4人ほどいたが、,深呼吸で80を超す心配ないです平常値ですと言ったら安心したらしく、元気のなかった守田さんが俄然張り切りだした。食欲はないが雑炊を流し込む、まだ睡眠中の胃袋はなにがおきたかもわからぬうちに消化しろと材料が送り込まれ、働く気もないのか、消化作業は停滞したままである。

   

 

2時ヘッドランプだけは勇ましく闇を照射する、すでに先発の列の光が上の樹間にちらちら見えている。外気温は6℃くらいか、寒くはない黙々と王さんを先頭に、 14 名の不機嫌な胃袋が連なる。いずれかお迎えが来た時も、こんな風に光りの列に導かれて上に上に上がっていくのだろうか、いやもしかしたら今がその時かも知れない。体をつねると痛みが感じない、おかしいやはり生きていなかったのか、更につねると痛い、痛いと前を歩いている清藤さんがお尻をさすっていた。良かった良かったみんな生きていたのだ。

道はかなりの急勾配だが、昨日とはうってかわってザックの中身は1gの水と雨具非常食で4kも無い、空気はひんやりと心地良く、深い呼吸は全身に酸素を取り込み、体の中に気が充実していくのがわかる。森林限界を過ぎ急峻な岩場は夜目にもかなりの崖をつづら折りに登っていくのがわかる。ゆっくりと登り、2時間半ほどで頂上直下の落石防止用のシェルターの中で夜明けを待つ。空が明るみを増す頃シェルターを出ると、かなりの急崖に鎖場が頂上をめざしている。みんな物も言わずに15分ほど一気に登る、と言うより這い登り玉山3952mに立った。折しも東の空をあかね色に染めて、中華民国製の晴天旭日がゆっくりと昇ってきた。

 

  


行きはよいよい帰りはぶるる 
山頂〜排雲山荘 2時間
周囲は台湾の若いグループが、80人ほど元気に飛び回っている。台湾ではまだ登山人口は若く、中高年の登山者はほとんど みかけない。山頂写真の記念撮影は、彼らとしばらく熾烈な領土争いを繰り返し、なんとか写真に納める事が出来た。日が昇るにつれて西にはきれいなブロッケン現象まで現れ、みんなで感激することしきりであった。頂上で王さんのいれてくれたコーヒのこれまたおいしかったこと、なんかUCCと書いてあったような気がする。しばらくすると頂上は日本語だけになっていた。頂上の一頭三角点は統治時代もので、日本の古い一等三角点と全く同じ書体で一等三角點と刻印されていた。

 

   

 

 統治の基礎資料が、正しい地形の把握だから初登頂も日本人の植物学者らしく、大正期にこの山の測量はかなりの苦労したのだろうと、先人の功績に頭が下がる思いであった。山はいかに安全に下るかが問題です、闇夜に無我夢中で登ってきた直下の急崖は、斜度45度〜50度、高低差200mで一気に落ちている。張られている鎖に王さんが、ケッチ(キャッチ)チエーンと叫んでいる。はるか下を色とりどりの台湾の若けー衆の声がとぎれとぎれに聞こえてくる。

 

    

 

山の事故のほとんどが下りで起きる。みんな最後まで気を抜かず降りましょう、もしスリップしても他は巻き込まず一人で落ちましょう。なんて、冗談とも本気ともつかぬかけ声をかけてみんな慎重に下る。台湾はフィリピンプレートと、ユーラシアプレートのせめぎ合いから造山運動が台湾の主稜を作り、地質は泥岩及び砂岩頁(けつがん)岩互層で、宮崎とよく似た地層で地震も多い。ぼろぼろの岩が浮き石状態なので、落石を注意してどうにかシェルターまで降りる。道ばたによほど緊急事態だったのか、誰かのウンコがあった。8合目より上はまったくの岩稜地帯なので、よほどのトイレ管理をしておかないと困ることになる。あのウンコもいずれ化石化すれば先史時代の標本になるかも知れない。あとはだらだらの下りだが、道幅は50cmくらい右手は結構な傾斜があり気を抜けない、やがてエーデルワイスの仲間の白い花、遅いツツジのピンクの花に心を奪われる余裕がでて、うっそうとしたトウヒの森林地帯から拝雲山荘が現れた。

 

  

 

雨もしとしと降ってきた排雲山荘〜タタカ 5時間

山小屋に着くとしばらく横になりたい、そー思って着いたが直ぐ下山の準備暗い中出かけたのでザックの整理が出来てない。おまけにあんなに天気が良かったのが今にも雨が降りそうである。ばたばたしていると、王さんがラーメンが出来たと呼びにきた。そういえば深夜おかゆを一杯食べただけだった。大きなボールに、インスタントラーメンもどきが湯気を立てていた。食べようと近づいたがその臭いにむせた、むせたついでに胃がイナバウヮーをした、こうなるともうダメだ、急にむかむかしてきた。口を押さえてあわてて部屋に戻り、深呼吸を繰り返す、水を飲んでどうにか落ち着いた。空腹も限度を過ぎたら食べれなくなる、まだ5時間は歩くので残った流動食を押し込む、しかしこの状況下でもしっかり食べている女性隊員がうらやましい。若い時はなんでもどんなときでも食べていたのに、長い贅沢生活が胃まで甘やかしてしまった、こんな調子では緊急事態では生きていけるのか、かなり心配だ山小屋を出発するときは一面霧が出ていた。雨具を着けている人もいた、宮崎を出発するとき、頂上だけでも晴れてくれたらいいのにと願っていたのがまったく2日も晴天だったのだから感謝感謝のはずだが、やはり雨はいやである。王さん早くもポンチョをつけて先頭をるんるんで飛ばしていた。昨日昼食をとった四阿(あずまや)が以外と遠い、歩いても歩いても山の角を回っても一向につかない、道は以外と平坦で時折登り返しがあったり、記憶に有る地形は断片的で記憶と現実の地形はいったりきたりする。この長丁場はいささかうんざりする、時折山小屋に荷を往復するポーターと「称好」とか「こんにちは」とか道を譲ったり譲られたりして、腹も空いてきたころようやく四阿に到着。登山口に到着すれば弁当があるとのことなので、少し食べて弁当を楽しみに腹をなだめる。四阿を出る時小降りだが雨も降ってきた。それからまただらだら下りを続けると、雨の中登って来る団体と擦れ違う、ほとんど台湾の若けー衆、中に一組すぐそれとわかる日本人の団体もいた、多分今日からニ、三日は雨だろうからなんとなくお気の毒にと頭を下げる。

もー歩くのもいやだとおもったら、ひょっこりと霧の中に登山口の石碑が目にはいる。わぁー無事降りてきた、とみんなと握手握手着いたら王さん胴上げしてあげると言ってたが、王さんの体重とわれらの年齢を差し引きして取りやめた。ガイドの湖さんもにこにこして営業顔以外に喜んでくれた。バスにのり濃厚な酸素に完全復活した胃に、弁当がうまいはずだったが、弁当は量を多くぎゅうぎゅう詰めのゴム長風昆布巻き、靴底トンカツとてもとても悪戦苦闘で半分も食べれなかった。結局この日朝2時から11時間の歩行は台中に向かうバスで、ガイドの説明もかなたにびんろう娘の夢でうつつでした。

 

 

それでも観光する

 台湾は九州と同じくらいの面積で人工は2300万人、今回の台湾は玉山登山が目的であったが、残り一日が観光にあてられた。朝台中をバスで出ると高速道路を、北上し台北をめざす。車窓の風景は日本と良く似ている。水田があるかと思えば、いきなり高層マンションがあったり、しかしあのびんろうの樹や、ハデハデ色彩のお寺は違う。インドの同じ原点の仏教も土着の信仰や気候風土とミックスするうちに各地でそれぞれ勝手な解釈がされて似ても非なる形式の宗派に別れていくのだろう、ハデハデお寺の屋根一杯にのたくり回っているハデハデ龍が「うるせーなーおいらの勝手だろう」と言ったような気がした。時折読める漢字は意味がわかるのもあれば見当のつかないのもある。漢字はこちらが本家なのでとやかくいう筋合いのものでもなかろう。まず躍進めざましい台湾経済の象徴台北国際金融センター508m101ビル」、いつも高い所に登っているのに、自分の足以外に登らされた高所は苦手だ300mの展望台は下を見るとぞくぞくする。土地が狭いから上に伸ばすのか、世界一をめざして建てたのか、この建物の必要性と建設費の回収がうまくいくのか余計なことばかり心配になる。移動するプレート上に何万トンもの一点集中加重が台湾島を歪ませ、地震を誘発しているとの説もあるが真偽はわからない。

 

    

 

バネ仕掛けの人形のような兵隊さんの交代式のある忠烈祠、どうも私は非人間的な行為は好きじゃない、衛兵だって瞬きしたってあくびしたり、屁をこいたりしたほうが人間味があっていいだのが。いやいやそんなこと書いたら、熱烈な愛国者から天誅をうけるから止めたがいい、あつもう書いたか、困ったなー内緒内緒ここだけの話。蒋介石が共産党との内戦に敗れたとき運んだきた宝ものの故宮博物館。といっても蒋介石が担いだわけでなく、膨大な宝を良くもあの人力中心の戦時中に運んだものだ、美術的価値はよくわからないが、どの一点をとってもお宝拝見の伸介も中島先生も腰をぬかしくらいの価値があるらしい。

   

    

よくも手先の器用な人がいたもんだ、と感心もしたし権力者の絶大な力が数々の工芸品を幾世代に渡り完成させた、歴史の重みは凄いものだ。展示物の歴史年表を見れば、日本が縄文土器で狩猟生活の時代に文字も法律も火薬も印刷も実用化していた。年表を見ると日本人が成り上がり国家といわんばかり、ついこそこそとその場を離れた。その他夜店見学台湾の昼も夜も若い人の多いこと、いったい年寄りはどこにいるのか、もしかして姥捨て山があってそこに捨てられいるのか50代以上はほとんど日本人、おみやげ屋や免税店で高く売りつけられているのも日本人。人口比率で高齢者が低いのであろうか、国の発展の象徴のような若い年齢層に圧倒される、そして観光見学の方が山のぼりより数倍くたびれた。

 

   

終わりに

 機は就航したばかりの宮崎〜台湾航路は20%程度の乗客であった。機が下降体制にはいり、やがて宮崎市内が眼下に見える、軽い衝撃と共に滑走路を助走する。見慣れた空港ターミナル、思わず胸の奥からなにかこみ上げてくる。終わった帰ったうどんが食いたい明日から朝寝が出来る、空港ビルで解散するとき少し感激と安堵の感情は、いつも冷静な私も興奮していたのかなんと挨拶したのか思いだせない、いやもしかしてこの遠征自体長い幻覚をみていたのかも知れない。

どうも長い文章終わりまで辛抱良く読んでいただき有り難う御座います。なにー途中飛ばしたーまぁーいい、又なにかの機会に読んでくんしゃい。

 

 

今後玉山に登られる方に

水    山小屋で湧かしたお湯があるので2日で2リットルで充分

防寒具  季節によるが5℃程度 薄手のダウンにカッパであとは夏スタイルで充分。

食料   よほどの胃の持ち主でない限り旨くない、ふりかけ、らっきょう 

     軽量の嗜好品 流動食は熱源補給に有効

靴    トレッキングシューズで充分

トイレ  隠れ場所がないのでグループで一つ大きめのポンチョがあれば便利但し岩場では使用しないこと。

カロリー 昼食が遠い、休憩のつど各人携帯食をこまめに摂る(とても重要)
     我々のメンバーの半数は食切れをおこして昼食が食べられなかった

ザック  最小必要限度 5kg程度に納める

手袋   夏用で充分 但し予備は必要


ストック 有効 短くなるのをザックにいれておく

ヘッドランプ これが無ければ登れない、点検し電池切れのないように

       グループで別に一つ予備を準備する

寝袋   貸与 ほとんどジッパーが壊れているが閉まらなくても寒くない

     洗濯はさみ2つで対応

呼吸   複式呼吸を常にする

睡眠   山小屋ではほとんど寝れないが横になっているだけで充分登れる

頂上   翌朝登れない気がするが、山小屋から頂上は大したことない頑張って登ろう。

医薬品  頭痛薬(必須) 芍薬甘草湯 ダイアモックス(状況により服用)

     消化薬    誘眠剤は不可   

速度   登山口までバスで2600m上がっているので、元気があって道が平坦だからとガイドのペースにのらない、ガイドはゆっくり登っているつもりだが、いつも3000m以上で生活しているので、一般人の高度順応速度を理解していない。ゆっくり登らないと後半ダメージを受ける。一日で3000m以上登るのでペース配分に注意が必要、百名山や海外トレキング経験を良く語る人は、メイドインチャイナの低酸素はなじまないかもしれない。自信や経験や天狗の鼻はとりあえず下に置いて登ろう

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